DORCHADAS -aigeann-



【星を見失った夜の回想】


「目覚めたかぁ」

聞き慣れない、けれどどこかしっとりと鼓膜に触れる低い声が覚醒を促す。

「つうか、いい加減起きねえと家に戻れなくなるぜぇ」

ペチ、と頬に触れた掌は遠慮なく痛みを伴っていた。素手ではない。

布に覆われたその感触。

「っ……うわっ」

「人の顔見て発する第一声がそれかぁ」

仰向けで寝転ぶ俺を上から覗き込む彼の瞳が、嫌そうにすっと細められた。

白銀の長ったらしい髪の毛がさらりと零れて俺の頬にかかる。

スクアーロ。数時間前に名乗ったその名を呟けば、ふん、と吐息だけで返事をしてきた。

「自分では何もしてねえってのに、気を失うなんて軟弱すぎだろぉ」

「……え?」

「怪異との対峙はこれからのお前にとって日常になっていくんだぜぇ?」

今からそんな調子でどうする、と笑う目元は棘を宿している。

甘えを許さない、と声なき意志で語る彼は、彼の元から逃げるように飛び出し怪物に襲われた俺を助けに来てくれた時のまま

全身黒の衣服と発光するかのような白銀髪のコントラスト。

……ああ。

襲われて、助けられて、そのまま意識を投げ出したのか、と現状に至るまでの過程を思い返した俺は両手を支えにゆっくりと上体を起こす。

街一番のホテル、リッツの最上階。スイートルーム。

なるほど逆戻りしたわけだ、と納得とも呆れとも取れる無意識の溜息を吐き落とし、傍に立つスクアーロへと視線を上げた。

寝かされていた革張りのソファが緩く上下して、彼が俺の足元へと重心半分で腰を下ろしたことを示す。

「あのまま家まで送り届けてもよかったが、生憎、俺はお前の住所なんて知らねえからな」

それに、と続けるスクアーロはおもむろに髪を掻きあげる。

さらさら。

見るからに触り心地のよさそうな髪の毛が、シャンデリアの光に照らされてキラキラと光を零していく。

瞳も銀。縁取る睫毛も白銀。なんだか本当に、白と黒のみで構成されているような人だ。鮮明な色を宿したモノクロ。

矛盾している二つがここに在るようで。

「お前が俺との条件を飲む以上、警告してやるのが筋だろう?」

意地悪げに吊り上げられていた唇がふと鋭利な気配を孕んで真一文字に引き伸ばされる。

確認から始めるぜぇ、と嗤う声音は歌うように。

「お前の右眼に妖精眼『黄金瞳』が宿る限り、お前は怪異に狙われ続ける」

「怪異?」

「人間が持ちうる『科学』という名の技術では、到底対処できない事象を『幻想』と総称する。

その中でも害をなす類を『怪異』と呼ぶ。お前を狙うのは怪異の中でも影人間、って部類だろうがなぁ」

言い聞かせるように語るスクアーロの語調は滑らかで、ゆっくりと染み込んでいくようだ。

早急に「俺のための餌になれ」と迫ってきた先ほどまでの口調を思えば、随分とゆっくり、噛み砕くようにひとつひとつ説いていく。

「怪異の性質は現実世界の生物の根本とは大いに異なる。

奴らの実態と生物の実態は世界の性質レベルからして相容れない。

だから、怪異は怪異そのものとして物質化することは出来ず、媒介として受肉を果たすか、

もしくは生物の思考より発生する微弱電波を亜粒子に置換する器官を生成するところから――」

前言撤回。話が一速も二速も上に跳ね上がった。

着いていこうと急激に回転しはじめた俺の思考は瞬く間に諦めという名のブレーキを踏む。

教科書を読み上げるかのように手振りを交えてツラツラと性質やら発生条件やらを述べ始めた男の横顔を見上げてみれば、

どこか忌々しげに細められた瞳は俺ではなく中空を見るともなく見ていた。

幾重にも連なるクリスタルが縁取るシャンデリアの眩さがちらちらと視界をよぎる。

ナチュラルホワイトの壁紙にやけに重そうな布地のカーテンが夜の闇をも遮断し、世界を切り取っているよう。

やけに磨きぬかれたテーブルは軽く触れただけで指紋が目立ってしまうだろうと容易に想像できるほどで、

庶民の感覚しか持っていないと自負する俺には、この部屋で寛げる自信は到底なかった。





「で………って、聞いてねえな」

「わ!」

ふいに瞬いたスクアーロがこちらに顔を向けながら口端を歪めた。

噛みついてきそうに歯をむき出して、微かに聞こえるのは舌打ちの音。

「聞いてはいるけど理解はしてません」

否。実際は聞き流していたから「聞いていた」とは言い難いけれど。

そんなことを口にしようものなら、眼前の男の機嫌を完全に損ねるのは目に見えているから。

「ああ、見るからに賢そうではないからなぁ」

「失礼な!」

図星ですけど!とは言わない。言えない。言ってはいけない自分のために。

墓穴を掘る、という言葉は、俺でもなんとなく知っている。

「そうだな。お前が覚えておくべきことは2つ」

ピッと立てられたスクアーロの人差し指と中指。

手袋に包まれたそれは俺の意識を掬い上げるようにゆったりと上へ振られた。

「ひとつ。奴らの行動時間は平均して夕刻から深夜だぁ。

とはいえ限られたこととは言い難い。

まあ、奴らの行動範囲が自ら作り出した闇の世界である限り、お前はそこに問答無用で引きずり込まれちまうから、関係ないといえば関係ないけどな」

立てた人差し指の向こう側から、ツイと強まった視線が俺の思考を貫く。

「ひとつ。お前の右眼、黄金瞳は絶大な魔力を秘めた格好の糧だぁ」

一昨年の冬のある朝。

鏡に映った右目が、見慣れた琥珀色から光を纏うような金色へと変化したのは突然の出来事だった。

瞳孔は猫のように縦に伸び、医者に見せても病の類とは言い難い、異端の瞳。

どうしてこんなことになったのか、理由に見当がつかない事態から逃げるように、俺はそれを「当たり前のこと」として受け入れて。

意識の外へ放り出していたというのに。

訪れた非日常は、たった数時間で俺の平穏を粉々に砕いていった。

黄金瞳を食らい、自らを捕える闇世界から脱しようと迫る怪異。

怪異を滅ぼす力を有し、奴らを滅するために俺を囮として使おうとするスクアーロ。

命惜しさに、諾と頷いてしまった、俺。

呪うなら、恨むなら、どれに的を絞れば正当なのだろう。

「怪異に捕らわれたが最後。……右眼だけで済むと思うなよ」

片目を眇めたスクアーロがゆっくりと立ち上がりながら俺を見下ろす。

頭上から光を受け、逆光の最中立つ彼は、嘲笑とも冷笑とも、愉悦とも取れる歪な微笑を口元に湛えて。

「お前が誠意を持って逃げ回る限り、俺は必ずお前の元へと駆けつける。それまでに捕まるようなことがあれば……」

逃げ道を塞ぎ、選ばざるをえない一択を突き付けておきながら、この男は。

「ショートケーキの苺が好きなガキが、苺だけ食ってケーキを捨てる、なんてことはないだろぉ?」

根性の捻じ曲がったような、遠回しの言い方で、俺に死の恐怖を植え付けた。




以上、本文一部抜粋。